海のそばで、一日を過ごす|伊根
車の窓を開けると潮の匂い。車道の灯りは少なく、海の姿も深い夜の闇に溶けている。展望台に車を停めたとき、時計は午前4時を少し回っていた。車の窓には、少しずつ明るくなる空が映っている。夏の夜明けは早い。


木の葉の向こうに淡い色が差し、山の輪郭が現れる。見えていなかった入り江には、家並みと海があった。小さな漁船が一艘、静かな水面に航跡を残して湾の外へ向かっていく。
伊根。この町の一日が始まった。


明け方の駐車場には自分と、車中泊のキャンパーが1組。展望台を下り、明け方特有のやわらかな光を浴びるこの町並みを、カメラを片手に歩いてみることにした。この日は8月上旬、猛暑が続くさなかである。日が高く昇ってからでは、満足に歩き回ることも難しいかもしれない。

家と家のあいだの細い道。その先、手を伸ばせば届くところに海がある。手前には一台の自転車が置かれていた。木造の家々のあいだをバスが曲がり、排気音が軋むボートの音と混じり合っている。



屋根の下に収められた木の小舟、海上タクシーの待合所、通りを走り抜ける一台のバイク。舟屋のある風景をファインダー越しに見ていると、遠い過去と現在が重なるような、不思議な感覚になった。




やがて駐車場に大型バスが着き、船着場にも人が集まってきた。朝の静けさの中を歩いた同じ町が、今度は観光地として動き出す。十人ほどが乗る海上タクシーに乗り、若い船頭の小気味良い案内を聞きながら湾を巡った。
岸を離れると、さっきまで歩いていた道は家並みの裏へ隠れ、海に向いた舟屋の顔が見えてくる。船べりに結ばれた黄色い浮きが水をかき、船は白い泡を残して進んだ。


舟屋の前には、二艘の木の小舟が並んでいた。岸辺の水は明るい緑色で、沖へ目を移すほど青が深くなる。小さな魚が見えるほど澄んだ海の上を、鳥が低く飛んでいる。


船着場に戻ると、広い駐車場では観光バスから大勢の旅行者が降りているところだった。通りは多くの観光客が歩いている。見渡す限りの青い海、その前を2台の郵便配達の赤いバイクが通り過ぎていった。そのコントラストをファインダーにおさめる。気温38度。日差しが強く、気を抜くと空の色も飛びそうだ。

町を離れ、切り立った崖に沿って車を走らせる。高いところから見下ろすと、屋根が重なる先に漁港があった。日が傾いた頃、戻ってこよう。


寝不足の体を少し休めた後、夕暮れの港へ戻る。
朝の入り江とも、昼の舟屋の前とも違う静けさがある。漁船のディテールや、陸に上げられた小舟に目が留まる。防波堤の向こうの空はゆっくり色を変え、手前では波が同じ間隔で岸に寄せている。



決して止まない波の音を聞きながら、どこか時間が止まったような感覚になる。小さな漁船に寄ってみる。遠くには大型の船が浮かんでいる。鳥がいたり、猫がいたりする。使い込まれた網、道具。誰もいなくても、たしかに感じる生活や日常の痕跡。港のもつ魅力は、抗い難い。



津々浦々。津は港を、浦は水辺を指す。
四方を海に囲まれた日本には、多くの「津」と「浦」がある。いつしか津々浦々は「至る所」という意味を持つようになった。この国の生活と密接に結びついた海や水。津々浦々を歩き、これからも多くの魅力に出会いたい。


